Peace full info by 平和と民主主義をすすめる左京懇談会


55年目の憲法記念日を迎えて

平和と民主主義をすすめる左京懇談会
会長 倉知 三夫

国連憲章と日本国憲法

 すべてのひとは、この世に生まれて、生きること、働くこと、暮らすことを学びます。

 人類は、サル目ヒト科の動物として、約250万年前から地球上に、他の生物と共に生存しています。

 人類の特徴は、直立歩行ができ、脳の発達が著しく、手を巧みに使い、道具を作り、言語を用いて互いに社会や国家をつくって交流します。現在、総人口は約60億ともいわれています。

 20世紀に生きた人類は、「われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた惨害から将来の世代を救い、基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念を確認した。」と国際連合憲章〔昭和20年(1945)10月24日〕で、地球上で平和に暮らす基本方策を確め合いました。つづいて、「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言した。」日本国憲法を昭和21年(1946)11月3日に公布し、翌年の5月3日から施行しました。この日が、私達の憲法記念日となりました。

昭和2年(1927)の国際婦人デーに生まれる

 昭和2年(1927)3月8日に生れた私にとっては、ちょうど20才の成年の年に当ります。今年75才になって顧みますと、昭和の初め頃は、世界金融恐慌の只中で、父の月給が3ヶ月も支払われなかったり、労働争議が頻発していましたが、その都度憲兵隊が出動して鎮圧したり、いろいろと、働きや暮らしが困難な時代でした。橋田寿賀子さんの小説“おしん”や、小林多喜二の“蟹工船”などの時代でした。そして、3月8日が1910年(明治43)から始まった「婦人解放をめざす国際的な連帯行動の日、国際婦人デー」であることを戦後になって知りました。

「ススメススメヘイタイススメ」の北白川尋常高等小学校時代

 昭和8年(1933)に京都市立北白川尋常高等小学校へ入学しましたが、時代はすでに大激動を起していました。昭和6年(1931)9月には、中国東北地方の柳条湖で、日本の関東軍の謀略事件によって満州事変が勃発しており、入学の前月には、日本は国際連盟を脱退していました。また、5月には、京都帝国大学法学部の滝川幸辰教授が自由主義思想を理由に、時の鳩山一郎文相によって免官を強制され、学問と研究の自由が奪われるという“京大事件”が起っていました。しかし、小学生の私には何も判りませんでした。国語の教科書は「ススメススメヘイタイススメ」となり、天皇・皇后の写真を入れた奉安殿には最敬礼をして登下校しました。学芸会では“爆弾三勇士”の一人として演じました。いま問題になっている半鐘山では“兵隊ごっこ”で遊びました。小学校から、大日本帝国憲法のもとで、“天皇陛下万歳”と叫んで戦死する兵隊づくりが始められていたのです。

 昭和12年(1937)7月7日には、北京郊外の盧溝橋で日中戦争が始まり、翌年5月には、国家総動員法が発令され、全国民が戦争に駆り立てられることになりました。しかし、まだ当時は、北白川天神宮の秋の例祭には、地元の若衆が元気よく御輿をかついで町内を巡回していました。日中戦争が拡大するにつれて、若衆は赤紙の召集令状で徴兵されました。私達小学生は、出征される兵隊さんを「武運長久」の幟をたてたトラックの荷台に乗って、伏見の16師団の営門まで“万歳、万歳”と見送りました。多くの若衆が兵隊にとられるようになって、北白川の街もだんだんさびしくなりました。いま、北白川天神宮の境内には、246名にも及ぶ戦死者の銘碑が建てられ、その裏には、「再び悲惨な戦争を起してはならない」と刻まれています。

「立派な軍国少年」に育った京都府立第三中学校時代

 昭和15年(1940)4月に、京都府立京都第三中学校(今の山城高校)に入学、カーキ色の陸軍の軍服のような制服・制帽でゲートルを巻いて通学しました。学校では陸軍中尉の配属将校が、校長先生より偉そうにしており、生徒には怖い存在でした。S先生は「草をとれ、本を読め、そして寝ろ」と、人生訓を教えて下さいました。先生の多くは、「この戦争は間違っている。」ということを、それとはなしにお話しされていたようでしたが、生徒は殆ど何も知らずに、ひたすら、軍事教練、勤労奉仕、防空演習の中で勉強しましたが、国史では、“万世一系”の天皇は神であり、八紘一宇の皇国史観の教科書でした。私は“立派な軍国少年”に育っていました。

 昭和16年(1941)12月8日、天皇は米英両国に宣戦布告して、真珠湾攻撃、マレー半島上陸で、太平洋戦争に突入しました。開戦直後は華々しい“戦果”をあげていましたが、兄は海軍軍属として南方に徴用され、父は3年生のとき死去しました。「欲しがりません 勝つまでは」「撃ちてし止まん」などのスローガンが盛んに叫ばれていましたが、近所の方々も、みな、苦しい生活に耐え忍んでおられました。昭和18年(1943)11月には、大学生も徴兵され出陣学徒の壮行会が各地で行なわれ、戦場に駆り出されました。「きけ わだつみの声」にあるように、不本意な戦死や戦病死を余儀なくされました。このような経験をされた方は、もう80歳以上になっておられます。学徒出陣の年には、連合艦隊司令長官山本五十六大将が戦死し、千島列島のアッツ島では守備隊全員が“玉砕”しました。

「国を護り、仇をうつ」と海軍兵学校に入校

 私は、「日本の国を護り」「先輩の仇をうつ」覚悟で敗戦の色も濃くなった翌昭和19年(1944)10月、江田島の海軍兵学校(76期)に入校しました。兵学校では、1号、2号、3号と呼ばれる各学年の生徒約50名で分隊が構成され、最上級生の1号生徒による厳しい自治と躾教育によって生徒館生活が実施されていました。廊下には各所に大きな鏡があり、自分の姿をよく見るようにしてありました。前任の校長(昭17・10〜19・7)井上成美中将(当時)は、皇国史観によって日本が進めてきた戦争を一貫して批判しておられ、本土決戦が叫ばれていた当時でも、人間尊重と自啓・自治の教育方針を明示され、後任の校長もこれを引き継ぎ、軍事学よりも普通学に重点をおき、英語教育も重視していました。当時としては特異なエリート校であったと思います。井上校長はその後、“ラディカル・リベラリスト”として終戦工作に尽力されて“最後の海軍大将”となりました。

 昭和20年(1945)7月26日、米・英・中三国首脳の名で、日本軍隊の無条件降伏と、戦後処理方針を勧告する「ポツダム宣言」が出されましたが、この宣言受諾の可否について、天皇と政府の外交態度と処置など知る由もありませんでした。国の運命を左右する重大事項の決断と決定は、為政者の責任の最たるものであります。

熱を感じる白い光と重い轟音

 8月6日朝、突然、熱を感じる白い光と、その後に続いた重い轟音で、広島市方面の青空に立ち昇る真白いキノコ雲と米軍のB29爆撃機の銀翼をこの目で視ました。暫くしてこれが原子爆弾であることを聞き、続いて9日にも長崎市に投下されたことが知らされました。

 これも突然、8月15日には、ポツダム宣言を受諾した天皇の終戦の詔勅を雑音でよく判らないままに聞き、その夜から燈火管制が解かれ、明るい電灯の窓が開かれましたが、心は呆然自失でした。8月24日には帰郷を命ぜられ、宇品港から焼け野が原になった広島市街を通って、広島駅からその夜、石炭を積む無蓋貨車に、避難者の方々と一緒に乗って、翌朝京都の自宅に無事帰りました。

 広島駅前で汽車を待っているとき、ズルズルに火傷を負って包帯もしない50歳位の父親を乳母車に乗せて、手足に包帯した中学生が、とぼとぼと、私の目の前を通り過ぎて行きました。また、夜明けに通過した神戸の市街も一面焼け野が原で、海が見えました。京都駅では、3人の男性の餓死死体が横たわっていました。この目で視た現実の戦争による地獄絵は、私の心に焼きつきました。そして、「これからの人生を如何に生きるか」という課題に直面しました。

日本国憲法前文を熟読した第三高等学校時代

 兄はまだビルマでの徴用から帰っておらず、母と姉妹の生活をどのようにして守るか、現実の課題を前にして、私は先ず食糧難と闘わざるを得ませんでした。遠い親戚や知人を頼って石川県や富山県の農家を訪ねて、お米の買い出しをしました。衣料と食糧との物々交換でした。“買い出し列車”には窓ガラスはなく、窓から直接満員の車両に割り込んで乗るといった、今では考えられないような無謀な行動でした。敗戦の虚脱の中で、生きることに精一杯の時代でした。

 しかし、私自身の生き方と日本の国の将来についても考えなければなりませんでした。

 亡父は釜石製鉄所の技師でしたし、理科に興味をもっていましたので、日本の鉄鋼業の復興に役立つ人間になろうと思い立って、昭和21年(1946)4月、吉田山麓の第三高等学校理科(現京都大学総合人間学部)に入学しました。先輩や同輩のお世話になりながら、母を励ましの“竹の子生活”とアルバイトで、芋をかじりながら勉強しました。当時、学校の南隣の京大楽友会館は、進駐米軍のPX(Post Exchange=酒保)として接収されており、華やかな米兵のダンスホールもあり、あまりいい気持のするものではありませんでした。いまも沖縄などの米軍基地の近くに住う人々の心持もよく理解できます。そして、一日も早く、外国の軍隊を自国内に駐留させない独立平和国家にしたいと思いました。2年生になった昭和22年(1947)5月3日に、新しい日本国憲法が施行されました。未だ敗戦の混乱期を脱してはいませんでしたたが、日本が国際社会に復帰する国旨を定めたことは、18歳まで大日本帝国憲法のもとで育った軍国少年が、平和と民主主義に生きる成年に180度転換する確固とした座標軸となりました。私は、日本国憲法の前文の精神を将来の生活指針とするべくしっかりと読みました。

 しかし、国際連合で日本国の加盟が承認され、国際社会に復帰できたのは、昭和31年(1956)12月18日で、憲法施行から10年の歳月を要したことは忘れてはなりません。

京都大学入試に憲法の英文和訳

 昭和25年(1950)4月に京都大学工学部冶金学科に入学しましたが、その時の入学試験に日本国憲法の前文が英文和訳の問題として出題されました。またこの年、中小企業庁長官であった京都大学名誉教授の蜷川虎三先生が京都府知事に初当選されて、府庁の玄関には「憲法を暮らしの中に生かそう」という垂幕をかかげられて以来、28年間、一貫して平和と民主主義をすすめる府政を推進されました。その後不幸にして自民党主導の国政に追随して地方自治の本質を見失った京都府政が続いていますが、今回の森川明弁護士の知事選挙の結果が示しているように、蜷川民主府政の精神は、まだ脈々と京都府民の中に生きて育っていると確信しています。

 憲章や憲法は、単なる条文ではなく、その理念・思想による実践によって具現化されるのです。また人間の生存に欠かせない基本的人権は、ひとりひとりの人間のいのち、働き、暮らしの中で具現化するべき言葉であり、平和の中で育ち、戦争によって死滅する言葉であると私の生活体験で実証しています。

 最近、税金を食い物にする国会議員や首長の行状、国連決議を無視するような米国の軍事行動に追随する日本政府の動向、地方自治を圧迫するような財政政策、歴史教科書へ皇国史観を導入する策謀、過去日本の侵略被害をうけた隣国を逆撫でするような小泉首相とその閣僚の靖国神社参拝、さらに米国の軍事戦略に追随して戦争への道に導こうとする有事法制などの強引な推進等々、21世紀に生存する日本国を、平和を希求する国際社会から再び離脱させる危険を感じさせます。

人生の指針 日本国憲法

 私は、いま75年の生活体験から学んだ日本国憲法を人生指針として余生を、この左京区で、平和と民主主義をすすめるための世論形成と選挙による実現に捧げようと思っております。皆様の益々のご健勝とご健闘をお祈り申し上げる次第です。

(2002年5月3日)

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